kongitsune’s diary

県道走行、名所旧跡訪問などの記録

懐かしい石段の思い出

4/7(日曜日)の午後、大崎八幡宮へお参りに行きました。この日は青空が広がり過ごしやすい天気でした。

サクラも咲き始めていて目を楽しませてくれます。淡い色が何とも言えません。

 

石段を登り、本殿の前に着きました。建物は立派な造りです。

上のほうに目をやると、色鮮やかな装飾が施されています。描かれている模様や生き物の彫刻など、それぞれ仏教的な意味があるのでしょう。知識が無いので全く分かりませんが、しばらく見入ってしまいました。豪華絢爛という言葉が自然と連想されます。極楽浄土とはこのような世界なのかなと想像もしました。

 

私が学生の頃、この近くに住んでいました。同じく近くに住む友達の家に遊びに行くとき、毎回境内を通っていました。鳥居をくぐり石段を登り切ると右側に脇道があります。そこから少し先に友人宅がありました。この石段を何度も登り降りしたしたのだな、と思うと感慨深いです。また当時は鳥居の前の大通りに面してセブンイレブンがありました。あとコインランドリーもあって、どちらも良く利用していました。セブンイレブンは閉店し、コインランドリーは現在も営業中です。以上、ささやかなお参り&お花見でした。

 

60 鹿島台鳴瀬線

大崎市鹿島台から東松島市野蒜を結ぶ実延長9.3Kmの主要地方道です。主に吉田川右岸の堤防沿いのルートをとっています。途中、国道45号と重複する区間もあります。

初回訪問

初めて走行したのは2011年2月のことでした。

2011/2/6

鹿島台木間塚に設置されているヘキサ標識です。当時、堤防脇では工事が行われていました。道幅は狭く、すれ違い時に多少気を使うので苦手意識を感じ、その後走行する機会はありませんでした。

再訪

それから13年後(2024年3月)、ふと思い立って再走行しました。理由は自分でも分かりません。堤防上の道をゆっくり走っていたら、後ろから来た車にあっという間に追いつかれました。歩く速さが人それぞれ違うように運転の速度感覚も違うのでしょうが、どのように培われてゆくのだろうと思いました。

2024/3/16

前回撮影時と同じ標識を見つけました。右上の方にキズが付いていました。トラックの荷台からはみ出した積載物がぶつかったのでしょうか。

 

こちらが鳴瀬町川下の国道45号線との交差点です。現在押しボタン式の信号機が設置されてますが、以前は無かったように記憶しています。前方先には吉田川・鳴瀬川に架かる三陸自動車の鳴瀬奥松島大橋が見えます。交差点右側では国道45号の嵩上げ工事(川下地区道路改良工事)が行われていました。大雨による路面冠水対策を目的とし、まず国道脇に切廻し道路を築造するところから進められていました。

野蒜街道

順番は前後しますが、鹿島台バイパス付近で東北本線の踏切を渡りました。踏切の名称は「野蒜街道第1踏切」です。野蒜街道とは明治期に野蒜築港の事業に合わせて整備された道路のようです。国立国会図書館デジタルコレクションで検索してみたところ、「宮城縣縣治一斑 第30回(大正3年)」(宮城縣、1915.10発行)に載っていました。白書のような発行物で、県内の天候の記録や社会経済農業等の実状がまとめられています。野蒜街道は交通及運輸部の街道里程の欄に「志田郡古川ヨリ桃生郡野蒜に通ス 里程八.〇三」と記載されていました。

この県道と当時の野蒜街道のルートは重なっているのでしょうか。もしそうだとしたら一般県道ではなく主要地方道に指定されるのは当然かもしれません。

ところで、以前に大崎氏松山にある「野蒜街道開通の碑」を見学した事を思い出しました。点が繋がり少し理解が深まりました。

ちなみに宮城縣縣治一斑の同じ欄には利府街道、笹谷街道、作並街道、二口街道など現在もなじみのある街道名が載っていました。

 

167 真山高清水線

大崎市岩出山真山と栗原市高清水を結ぶ、実延長9.7Kmの一般県道です。

左:2011/6/5撮影、右:2024/2/25撮影

起点は県道17号栗駒岩出山線と交差しています。交差点前には真山小学校があります。残念ながら2018年3月に閉校し、近隣の小学校と統合していたとのことです。今日訪れてみて初めて知りました。交差点を通る時必ず目に入ってくる立派な校舎の姿はかねてから印象に残っていました。現在は校舎の一部を改修して「ジビエ食肉処理加工施設」として利用されています。

周辺には郵便局や駐在所があり、この一帯は中心部であることが伺えます。

 

起点標はすぐに見つかりました。道路側は完全に錆びついていたものの、歩道側の面はかろうじて黄色の塗装が残っていました。

 

交差点前には「吉野川」が流れています。最近足利尊氏の小説を読んだこともあり、名前の由来が南朝と何か関係するのかな、と勝手な妄想をしてしまいます。

 

ここから少し歩いたところに食事処「夢の道草 まやま」があります。ここで遅めの昼食をとりました。ボリューム満点でした。

 

天体写真

1993/3撮影 右上はプレアデス星団(すばる)

この天体写真は1993年3月に撮影したものです。当時デジカメはありませんので、ネガフィルムをデジタル化しました。この年、私は大学受験に失敗して浪人が決まり、失意のどん底にいました。当時札幌に住んでいたのですが、関東地方の予備校に通うため引っ越しを控えていました。札幌を離れる名残惜しさもあり、引っ越し直前に思い出作りとして星の写真を撮りに行きました。

 

行き先は石狩市厚田(当時は厚田村)で、夕方に1人でバスに乗り込みました。バッグの中にはカメラと三脚、高感度フィルムが入っています。カメラは父親が昔使っていたものでマミヤ製でした。レリーズも持参したので長時間露出も可能です。

 

バスを降りた後、予約していた民宿にチェックインしました。宿の名前は何故か今でも覚えており「望海荘」でした。名前の通り石狩湾に面した民宿で海水浴場のすぐそばに立地しています。こんなシーズンオフの時期に泊まりにくるヘンテコな客は私1人のみでした。廊下の本棚には夏の時期に刊行されたジャンプなどのマンガ雑誌が並べてあり、手に取ってみると心なしか潮の匂いを感じました。

 

夕食は粕漬けの鍋物だったことを覚えています。その後宿を出て海岸沿いの高台から撮影を行いました。あたりは真っ暗で満天の星空が広がっています。市内で見る空の様子とは全く異なっていて、無数の星が隙間なくちりばめられていました。

 

写真は当時の記憶の引き出しを開けてくれる鍵のようなものだな、と思いました。

極楽征夷大将軍

先日、垣根涼介著「極楽征夷大将軍」を読み終えました。足利尊氏を主人公として鎌倉幕府滅亡から建武の新政室町幕府樹立までを描いた作品です。主に弟の足利直義、執事の高師直の視点で描かれています。彼らの心の内が丁寧に語られていて、何故そのような行動をとったのかを理解しながら読み進めることができました。

しかしながら登場人物が多く、どちらがどちら側についているのかが途中で分からなくなったり、途中で敵方に寝返ったりして、後半のほうは頭が混乱してしまいました。もう一度読み返す必要がありそうです。

足利尊氏という人物は司馬遼太郎の「花神」を読んで印象に残っていました。主人公の大村益次郎戊辰戦争終結後、「九州からいずれ足利尊氏のごとき者が起こる」と予言し、大阪に軍事施設を建設し始めたのです。その後、実際に西南戦争が勃発しました。

その当時、尊氏は裏切者という印象を持ったのですが、本作品を読了した結果、印象ががらりと変わりました。とてつもない野心を抱き、権謀術数に長けた人物かと思いきや、執着やこだわりにも薄く、多くの武士から慕われた人柄だったことを知りました。

それにしても、どの時代も生きるのは大変だと思いました。