kongitsune’s diary

県道走行、名所旧跡訪問などの記録

山刀伐峠

昨日、天気が良かったので山形県の最上町と尾花沢市の県境をまたぐ山刀伐(なたぎり)峠を散策してきました。 

「おくのほそ道」に記述がある峠で、以前からずっと気になっていました。しかしながら峠の名前が不気味な上、芭蕉達は大変な思いをして峠を越えたと記述しているので、少し敬遠する気持ちもありました。

 

峠道は南北に延びていますが、芭蕉と同様南下するルートをとりました。国道47号から県道28号に入り、しばらく走行します。トンネルが見えたら、その手前にある広場が峠入口です。頂上には旧道を車で上ってゆく方法、実際に芭蕉が辿ったとされる山道を徒歩で上ってゆく方法の2通りあります。迷わず後者を選びました。念のため登山シューズに履き替えて出発しました。上の写真は入口の様子です。説明板や標柱が設置されています。英語版もありました。海外から訪れる人もいるのでしょう。

説明板に道案内図が載っていました(細かい事ですが、GIMPという画像編集ソフトを使って真正面から見たように補正しました)。旧道はつづら折りとなっており険しさを感じます。昭和52年に山刀伐トンネルが開通するまでこの道を通らざるを得ませんでした。登山道は直登するルートとなっています。

登山道は整備されているので非常に助かります。しかしながら急斜面もあるので注意が必要です。

途中、木々の合間から北西方向を遠望できるスポットがありました。

頂上付近に到着しました。ここ付近が最上町と尾花沢市の境界です。左側の建物がトイレ、右側が「芭蕉庵」という名称の休憩所です。

ここから山道に再び入って少し進むと山刀伐峠顕彰碑(先頭の写真)、子持ち杉、子宝地蔵尊があります。地蔵尊の扉には鍵がかかっていませんでしたので、お参りできました。賽銭箱も中にありました。

この後、峠を下って県道合流地点を目指します。

下りの勾配は緩やかで、登りの時とは対照的でした。

杉林や草の生い茂った植生の異なる道を交互に抜けてゆきます。変化に富んでいて飽きさせません。

ゴールに向かう途中に気づいた点を4つ挙げます。

(1)途中、小さな沢を渡りました。1.5~2m程度の丸太の橋が架けられており、脇に「山伏澤橋 28.5.24」という木札が置かれていました。おくのほそ道の「水を渡り」はここを指しているのかな、と想像しました。

(2)「鍋割の三吉茶屋跡」と書かれた木札を見かけました。江戸時代に休憩所として、ここに茶屋が存在していたのでしょうか?

(3)途中、舗装された旧道を歩く区間がありました。道脇には耕作放棄された水田がありました。雑草がかなり生い茂っておりかなりの年数が経っているようでした。今後人口減少や担い手不足などにより、水田面積は徐々に少なくなってゆくのでしょうか。

(4)ゴール手前に馬頭観世音の石碑がありました。江戸時代、馬を使って荷物を運んでいただろうことを伺わせます。こんなに狭い道を通っていたとすれば、大変だったことと思います。

ようやく県道合流地点にたどり着きました。実は峠の頂上で引き返すかどうか迷ったのですが、ここまで来て正解でした。小川のほとりで昼食もかねて休憩しました。せせらぎの音で疲れが癒されました。

 


この地域の上空は飛行ルートとなっているのでしょうか、飛行機雲を良く見かけました。付近にはマーガレットが群生していました。休憩後、同じ道を引き返してスタート地点に戻りました。

おくのほそ道では「高山森々として一鳥声聞かず」とあります。今日歩いてみたところ、鳥や虫の鳴き声で賑やかでした。また茂みの中でゴソゴソと動く音も何度も聞きました。芭蕉が峠を越えたのは元禄2年5月17日(陽暦7月3日)なので時期的にも近いのですが、事前の印象とはだいぶ異なっていました。

また、道案内してくれた男性は「この道必ず不用のことあり」と云っていました。山賊を意味しているのだと思います。山越えが終わったあと、この話を聞かされて「胸とどろくのみなり」と胸の鼓動が収まらない様子を書き記しました。

現代だと熊に相当するでしょうか。入口に釣り人が町内の河川で熊に襲われた、という注意書きが貼ってあったので多少不安に思いながら歩きましたが、遭遇しなかったのは幸いでした。

このあと芭蕉曽良は尾花沢の鈴木清風を訪ね、一転して心安らかな日々を過ごしました。鳴子から山刀伐峠に続く苦労や困難は一つの山場だったと言えます。